2024年03月03日(日)
原点 [いつかの話]
画像は今朝の日の出です。
家から車で10分くらいの入野海岸で撮影。
久し振りに「だるま朝日」を見ることが出来た。
自分が寒蘭にのめり込んだのは宿毛市に赴任したのがきっかけだと書きましたが、それ以前に寒蘭に関わっていなかった訳ではないです。どうでもいい話ですが宿毛以前の話を書いていきたいと思います。
ここは私の祖父が住んでいたところだ。
すでに建物は無く廃墟と化しているが、コンクリー製の塀だけが残っている。祖父はこの塀の内側で寒蘭を100鉢ほど作っていた。縦10m×横1m、高さ1.5m程度だったと思う。孟宗竹を半分に割ったものを棚の上に並べて遮光と雨よけをしていた。東側は開放で簡単な作りの棚だった。地面に青やピンクの鮮やかな火鉢のような大きな鉢を並べて栽培していた。
画像は祖父の家から飯泉山(通称観音さん)の蘭坪までの道のり(青線)。山道を1.6kmほどだが高低差があるので2kmはあると思う。
この坪に祖父に連れられて蘭採りに行った。小学校1,2年生だったと思うが自分も初めて蘭を引いた。
蘭を引くと祖父に小遣いを貰えたので、小学校時代は友達と山に入った時はいつも蘭を探していた。
画像は私の母校。
中学校時代は寒蘭に関わることは無かったが、蘭採りを教えたくれた祖父が亡くなった。その後寒蘭は父が自宅に小さな小屋を建てて世話をした。
高校生になって農業高校に進学した。ここで農業の基礎をしっかり学んだ。本当は遊びたかったが農学部に推薦入学制度が出来、それを受けることが決まっていた。その条件が全ての学科で限りなく5を採ることだった。それに縛られて真面目な高校生活だったと思う。
この中で農業クラブというのがあって自分は花卉部?に入ったと思う。校舎も新しくなり農業部門には予算も十分合ったので、珍しいことに当時最先端技術であったメリクロン(mericlone)の設備が完備されていた。
オートクレーブでホルモン剤を入れた寒天培地を作った。それに花の成長点を移植して経過を見ていた。クラブの在籍が2年間くらいなので成長点から成長した個体を見ることは無かったが、カルスは観察できた。
この時同級生が家から寒蘭を持ってきて寒蘭の成長点の培養も一緒にした。同級生には「豊雪」を増殖し金儲けをしたい夢があった。
続く
Posted by woods at 2024年03月03日(日) 20時08分 トラックバック ( 0 ) コメント ( 3 )
コメント
以前、何回かお世話になった長野の武井です。
ブログの更新がないのが気になり最近のブログから体調を崩されたご様子を知りました。
本ブログは私のバイブルであり、何かにつけ参考にさせて頂きました。
早いご快癒を祈念しております。
貧血が落ち着けばもうすこし書き込みできると思います。まだ微熱があります。
こんにちは。
小学生で山取り、高校生で学術的な知識や考察。
凄いです。
今の栽培方法の礎になっている部分もあるのかと思います。
30年前は私の住む関東では寒蘭を作っている人が少なく、商人や趣味者の家に行くと水は辛目で光は薄暗い感じにしなさいと言われました。確かに皆のラン舎は薄暗かったです。
woodsさんのこのブログにたどり着いてからは、栽培方法が180度変わりましたが納得のいく知識や考察なので、栽培方法を大きく変えることも、あまり大きな抵抗が無かったです。
まだまだですが結果が出てきていますので嬉しい限りです。
秘密にしておきたいこともあるかと思いますが、多くをオープンにしてもらえて非常に助かっています。
纏まりませんが、今後とも色々と載せてもらえますと嬉しいです。
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